「羊は一匹でいい」2010-2015年
眠れないという悩みとは無縁のM氏は、その逆の、現実で起きていられないという悩みを抱えている。
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M氏は自分の頭の中に、品の良い羊を一匹飼っている。
羊は彼の頭の中をゆるやかに歩きまわり、時々かわいらしい声でワンと鳴く。
名前は無い。彼が自身の頭の中に意識できる生命体はこれ一匹であり、だから名前は必要なかった。
また彼は、頭の中にこの羊のためのホームを用意している。
ホームはいつでもいつまでも昼のままのすてきな草原で、小さな森と池もある。
ホームの隅には小屋がひとつ建っている。
これは殺風景すぎることから洒落て見えるような小屋で、窓は1枚も無い。
南京錠で封じられたドアが1枚あるだけ。
表札は無い。
M氏が自身の頭の中に意識できるものは、羊と羊のためのホーム像であり、この小屋は風景に溶け込む素材の1つに過ぎない。
だから表札は必要なかった。
さて羊は今日もゆるやかに歩きまわる。
おいしい草を食む。
おいしい草のつづくままに進む。
だから羊は、あの洒落た小屋に偶然近づくこともある。
羊の目に、ちらと小屋のドアがうつりこむこともある。
そんな時M氏は必ず目覚め、現実に戻る。
理由は彼にもわからない。
M氏が目覚めてその目で確認するものはまず、机の上に積み上がった問題の山だ。
書類で成る高い山で、それは何山も何山もある。
M氏は「いつのまにか眠ってしまったのかな」と考える。
口元を拭い、首に痛みを感じて手をやる。
続いて体を伸ばし、椅子に座り直す。
「それで、なんだったかな」と考える。
書類を1枚手に取って、見る。しかしよく見えない。書類の山影は暗いのだ。
頭をふる。
眠る前に何をしようとしていたのかを思い出そうとする。
そして、眠る前にしようとしていたことは、同じく眠る前に何をしようとしていたのかを思い出そうとしていたこと、それだったと思い出す。
途方にくれる。
ご近所の犬がワンと一鳴きするのが聞こえてくる。
M氏はハッとする。
ワン?
彼の頭の中の羊が今、さっと振り返った。
羊は例の小屋から目をそむけた形になる。
やがてゆるやかに歩きだす。
羊は思った。「そうだ、池に水を飲みに行こう」
この時M氏は、やはりまた眠りについている。
お疲れ様です。
イラスト/「良い木の積み木と羊のにんぎょう」2015年
使用画材/紙、墨汁、アクリル絵具
サイズ/150×150mm